ことば置き場

物語をめぐり、言葉をめぐり、それから。

満月(下)

   百日紅の色が眼裏に残る、その夜は満月だった。

   暗い空に穿たれた円形の穴は、別の世界に繋がっているのではないかと錯覚させる。考えてみれば、こうした自然の現象は奇怪だな、と水澄ソウジは病室の天井を見凝めながら思った。眠い。瞼を閉じるわけにはいかないのに、眠い。強烈な眠気は、恐怖心に克ることをはじめて知った。

「目が覚めた?  ソウジくん」

   ツキコがソウジの顔を覗き込みながら訊いた。ショートボブの髪が下に垂れ、大きな瞳が少しだけ陰になったが、それは輝きに満ちていた。あれ?  なんだこの既視感は?  水澄ソウジは記憶を手繰り寄せたが、何も糸口がつかめなかった。

   窓の外の百日紅の花弁は、紅色に燃えている。

「ミチルは?  今までミチルがそこに居ただろう?」

「え?  何言ってるの、ソウジ」

   ツキコの顔が急に蒼ざめた。唇は恐れのあまり引き攣り、つぎの言葉がうまく出てこないようだった。唾液を飲み込んだのか、ツキコの喉がわずかに震える。

「まさか、忘れたわけじゃないよね?」

「な、なにが」

「ミチルは先月、亡くなったばかりよ」

   霧が晴れるように、記憶が蘇る。ミチルが服毒自殺したのは、つい最近のことだった。しかし、さっきまで僕のそばに居たはずだ。ソウジは混乱して頭を抱えた。

   その瞬間、全身に痛みが走った。全身が切り刻まれたような痛みだった。もちろん傷口はすべて縫い合わされ、ふさがっている。

「三日前の夜、私の部屋でコーヒーを飲んで、その帰りに事故にあったのよ。電信柱は完全に折れてたよ。車もぐしゃぐしゃ。お医者さんも生きているのが不思議だって」

「さっき、同じ話をミチルから聞かされた」

「まさか……」

「ミチルは、元気そうだった」

「ソウジ、なに、言ってるの?  あの子は死んでるのよ。夢でも見ていたの?  そうよ、きっと悪い夢を見ていたんだわ!」

   重々しい沈黙が続いた。

  あの夜ーー。

   ロードスターに乗り込み、いつも通りにエンジンをかけ、アクセルを踏む。左ウィンカーを点滅させ、ゆっくりと国道に入る。真夜中の国道は空いていて、時折対向車のライトに目を細める。夜風が心地よい。こういう時、オープンカーで良かったと心底思う。

   眠い。アクセルを強く踏み込む。

   眠い。足裏がブレーキに向かない。

   眠い。スピードメーターが限界を振り切る。

   それなのに、目に見える風景はゆっくりと動く。心地よい夜風。夜空には、完璧な満月が浮かぶ。夜空に穿たれた光の穴。僕はもうすぐ別の世界に吸い込まれていくのだ。

「あなたの心が、まだミチルにあるのは分かってる。死ぬことで永遠にソウジの心に住み続けるなんて、ちょっとズルいよね。だから私は、あなたを永遠の世界に閉じ込める。永遠に、月の、私の世界から出ることは叶わない」

   ーー、思い出した。

   PTP包装の錠剤を持って笑っていたのは、ミチルではなくて、ツキコだ。車が大破する瞬間、ツキコの、氷のような笑みが、脳裏をよぎった。(了)

※縦書きでお読みになりたい方へ

投稿サイト「小説家になろう」にも掲載してみました。

宜しければ、どうぞ。

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