読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

しのふく通信

物語をめぐり、言葉をめぐり、それから。ーーーー✖︎篠崎フクシ

残滓(下)

   取調室の空気は淀んでいた。取調官の小田原は、自首してきた被疑者を前にして、暗澹たる気持ちになっていた。

   黙秘権を行使しているわけでもないのに、被疑者の森嶋ハルはずっと俯いたままだった。世間話にすらあまり乗ってこない、こういう男は苦手だ。小田原は空気を入れ換えるために、窓を開けようと立ち上がる。

   その時、背後のドアが開き、部下の御木本が近寄ってきた。小声で耳打ちすると、すぐに部下はいなくなった。

「あんたの証言どおり、川の底からカメラが見つかったそうだ」

「ぼ、僕のカメラ!」

   森嶋ハルは突然、興奮したように小田原に摑みかかる。すぐに部下の御木本が入ってきたが、小田原は右手をヒラヒラさせた。大丈夫だ、下がっていろという合図だった。部下はまたすぐに引っ込む。

「まあ、落ち着けよ。何もあんたのオモチャをとって食おうってんじゃないんだ。返して欲しけりゃ、なあ、もうちょっと事情を話してくれないかな」

   ハルは落ち着きを取り戻し、促されるままパイプ椅子に座った。

「ですから、妻を殺したのは僕です。それ以外に何を話せばいいんです?」

「事実は分かった。だが俺は事実を裏付ける動機が知りたい」

   ハルは刑事を軽蔑するように、薄笑みを浮かべた。

「そんなもの、新聞や雑誌、ネットの掲示板に嫌というほど書かれているじゃないですか。『殺人鬼、小学校教師はカメラおたくの変質者』とかなんとか。カメラを壊されて、殺意が湧いた。動機はそれでいいでしょう?」

   やれやれ。小田原はため息をついた。

「森嶋ミトモさん……、あなたの奥さんは妊娠してましたね。三ヶ月だった。胎児のDNA鑑定では、ほぼあなたのそれと一致していましたよ。つまり、あなたは父親なわけだ」

「何が、言いたいんです?」

   言葉と裏腹に、森嶋ハルの表情が和らいだのを小田原は見逃さなかった。これは、ビンゴか?

「何がって、俺はただ、事実を教えただけだよ」

「事実……。そんなもの、人の心の隅に溜まった残り滓のようなものでしょ。僕にとってはどうでもいい」

「その、残り滓ってやつにも意味がある。存在している以上ね。あんた、本当はカメラなんてどうでもよかったんじゃないか?」

「だから、何が、言いたい?」

   ハルの目が殺意剥き出しに、とがる。

「先月、あんたは探偵事務所に妻の浮気調査を依頼している。結果は聞いたかい?」

   ハルは黙っている。小田原は書類の束を机上に置いて続ける。

「あんたは奥さんを愛するがゆえに、常に疑心暗鬼だった。大学生の頃、ミスに選ばれるほどの美人だったしねえ。言い寄ってくる男も数知れず」

「煩い。それ以上言うと、あんたも殺す」

「あんたはいつも不安で、現実を直視できないものだから、フレーム越しに彼女を眺めるしかなかった。でも彼女は浮気なんか一度もしていなかったし、生まれてくるはずの子どももあんたの子だった。それが、残り滓のような、事実だ」

「やめろ! やめてくれ」

   森嶋ハルは頭を抱えながら、パイプ椅子から転がり落ちた。全身を痙攣させ声にならない声で叫び始めた。犬のような咆哮が取調室に響く。

   ぐおおおおーん、うおおおおーん……。

   悲しい響きが、いつまでも小田原の耳に張り付いて離れなかった。【了】

f:id:tokiniaiha:20170505063632j:image