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しのふく通信

物語をめぐり、言葉をめぐり、それから。ーーーー✖︎篠崎フクシ

残滓(上)

   蛇行する川の流れは穏やかだった。

   犀川の川面は五月の柔らかい陽光を反射させ、まるで光そのものが流れているように見える。一つ一つの光点は、あるいは、ひとりびとりの魂かもしれない。魂があつまり、やがて濁流となる。そんなことを思いながら、森嶋ハルは一眼レフカメラのシャッターを切る。

「ハル君、あのね。話しがあるの」

   ミトモの浮かない表情をフレーム越しに眺めるだけで、ハルは黙っている。あの、魂という名の光たちをぼかすために、F値を下げていく。二度目のシャッター音が鳴ったとき、ミトモは眉根を寄せてつづけた。

「妊娠したのよ、私」ハルの手が震える。ミトモの掌がフレームいっぱいに広がり、肌色の膜に覆われる。「ねえ、お願いだから撮るのをやめて。私の目を見て話してほしいの」

   ハルの視界は急に開け、眼球に小さな痛みを感じた。光たちに刺される、痛み。すべては分かっていたのだ、すべては。

「なぜ黙ってるの? 聞かないの? その……」

  二十代後半の森嶋ハルは、まだ少年のような肌艶をしていた。黒い前髪が風に揺れ、切れ長の目が見え隠れする。ミトモは寡黙で少年のようなハルが好きで、結婚した。でも、結婚から三年という月日は、二人の溝を広げる以外の役割を果たすことがなかった。

   ハルはようやく、わずかに唇を歪めた。

「え?」ミトモはハルの返答に言葉を失った。「意味がわからない、どういう……」

「だから、被写体としての君以外に、僕は興味がない。さあ、もう一度ポーズをとって、レンズに向かって微笑んでくれないか?」

   全身の血液が逆流するようだった。森嶋ミトモは怒りをそのまま言葉にして相手にぶつけた。

「ふ、ふざけないでよ! あんた、ちょっと変よ。妻が妊娠して、そんなリアクションって、ありなの?  この子はあんたの子どもじゃないかも知れないんだよ!」

   ミトモはハルのカメラを奪い取り、川に向け思い切り投げつけた。河原の硬く大きな岩にぶつけられたそれは、プラスチック片を撒き散らす。そしてそれは、悲鳴のような奇妙な音を立てながら水の底に沈んだ。

   ミトモが振り返ると、真っ青な顔をしたハルが目の前に立っていた。手には拳大の花崗岩を握りしめていた。その石は高く振り上げられ、ミトモの額に撃ちつけられた。

   ミトモはいま自分に起こっている事態を理解できない、という表情をしたままその場に倒れこんだ。この不可解な世界に答えなんてあるのだろうか? と問うように、その目はハルの姿を捉えていた。まさに、シャッターを切るように。

   一度撃ちつけられた石は、それから何度も同じように撃ちつけられた。その度にカシャ、カシャと、音が鳴っているような気がした。ハルはすべてが終わると、妻の屍体を車の後部座席に押し込んだ。それから、夕日に染まる北アルプスの峰々を背にして、車のエンジンをかけた。(つづく)

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