ことば置き場

物語をめぐり、言葉をめぐり、それから。

人々への眼差しー『ミュシャ展』から

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   日曜日の午後、乃木坂駅から地上に出ると、春の陽気に心和む。遠くに開花を始めた桜の木が見える。新国立美術館はチケットを買うのも長蛇の列に並び、館内もおしくらまんじゅう状態だった。

   でも、来てよかった、と思う。

   先日、録画しておいた「日曜美術館」のミュシャ特集を観て、どうしても観たくなったのだ。多部未華子さんが現地を訪れ、ミュシャチェコ語でムハ)のパリ時代とチェコ語の後半生を紹介していた。なにより私の興味をひいたのは、晩年、侵攻してきたナチスに捕らえられ、ミュシャが入っていたかもしれない独房まで映されていたことだった。ナチスにとって、ミュシャは「危険な民族主義者」だった。

   民族主義?  危険?  私は普段あまり使わないこうした用語を、どう考えてよいか、戸惑った。この言葉には好悪両面のイメージを持っていたからだ。けれど、ミュシャの絵をみれば、所謂権威主義的なそれとは程遠いものであることは、一目瞭然である。

   今回、そのすべてを揃えて展示されたのが、『スラヴ叙事詩』である。異民族との戦い、フス戦争、東ローマ皇帝の戴冠など、「民族」の重要なテーマが描かれる。しかし、英雄であるはずのヤン・フスや皇帝は大画面の端に追いやられ、あくまでも民衆の一人ひとりが丁寧に描かれる。

   チェコの重要な人物である、コメニウス(コメンスキー)を描いた一枚に私は足を止めた。「ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々」という作品である。やはり彼の姿は隅に小さく追いやられ、手前に信者たちが大きく描かれる。東の国の、私たちの受けている教育の方法論の祖が、実はここにいる。彼の存在は、教育に携わる者以外、ほとんど人口に膾炙されていないのだが、おそらくこの展示会で興味を持たれた方もいるのではないだろうか。

    振り返って、私たちの「民族」なるものを語るとき、ミュシャの、普通に暮らす人々への眼差しを共有することこそが、歴史に次の光をもたらすことになるのではないか。そんなことを考えながら、美術館を後にした。