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しのふく通信

物語をめぐり、言葉をめぐり、それから。ーーーー✖︎篠崎フクシ

床屋

床屋

この物語はコーエン兄弟〈バーバー〉のオマージュである。もちろん、スクリーンはモノクロになっている。

    ✳︎

    吉祥寺駅の公園口を降り、街の喧騒を抜け、井の頭公園への道を歩く。俺は暗い夜道に床屋のサインポールが浮き上がるのを確認する。もう二十年来、贔屓にしている店だ。

    重いガラスの扉を引くと、鈴の音が鳴った。いつもの静けさに俺はホッと一安心する。跡をつけてきた秘密警察をまく必要があったからだ。

「いつもの髪型で頼む」

   店の客は俺一人だ。相変わらず人気がない。店長の床屋が無口すぎるせいもあるのだろう。逆に、客である俺は、緊張のせいか、いつになく饒舌だった。確か、ヘミングウェイが好んだカクテルの逸話を話し始めた頃だ。床屋は俺の異変に気づいて、通り側のブラインドをすべて下ろした。

「商売の邪魔になったな。すまないね、マスター」

「いえ、今夜はもう店じまいのつもりでしたから。それに、ほら」床屋はシガレットに火をつけ、気持ちよさそうにそれを吸った。「ちょうど一服したかったところなんです」

    タバコをくわえた中年の床屋は、どこか俳優のビリー・ボブ・ソーントンに似ていた。寡黙すぎる床屋だった。

    俺は変装用のカツラを外し、床屋に渡す。汗をかき少々蒸れていたが、痒みが出るほどではなかった。若禿のため、ほとんど毛髪がなかったおかげでもある。

   その時、めったに鳴ることのない鈴の音が鳴った。一気に緊張が走る。黒スーツの二人組の男たちが、店内の様子をうかがう。

「マスター」片方の男が尋ねる。「たった今、長髪の若い男が、入ってこなかったか」

「さあ、見ての通りのお客さんだけですが」

    床屋はシャワーのヘッドから熱湯を流し、面倒臭そうに答える。俺の前の備え付け鏡は蒸気で曇り、ほとんど何も映っていない。

「冷やかしなら勘弁してくださいよ」笑っているようで、床屋のその目は、冷酷に座っていた。

    もう片方の男が舌打ちし、行くぞ、と相方を促す。

       ✳︎

   静寂が戻る。

「助かったよ、マスター」俺が礼を言うと、床屋は首を横に振っただけで、仕事を続けた。彼は何も詮索しない。

    毛根はほとんど死滅しかかっていたが、両耳の上にわずかに残る髪を丁寧にカットする。フサフサだろうがツルツルだろうが関係ない、というように、床屋は専門的な手つきで鋏を操る。

「髪は不思議です。爪のように、切っても切っても伸びてくる。そしてそれは、身体の一部であるにもかかわらず、切り取られ、無残に棄てられていく」

   床屋は俺の身体の一部を切り取りながら、呟いた。

   俺は黙り込んだ。

   この世界の一部はつねに、無用であると認められたとたん、切り取られ棄てられる。それは権力一般を指して言うのではない。社会の底辺と呼ばれる者たちのなかにも見えないヒエラルキーがあり、際限なく切り取られていくのだ。

    床屋は励ますように言った。

「お客さん、諦めちゃいけません。なぜなら、あご髭はまだまだ勢いよく伸び続けるのですから」

「上がダメなら下、ですか」宇宙の摂理を知ったような気がした。「僕にも一口いただけますか?」

   床屋は嬉しそうに微笑む。シガレットのフィルターは、床屋の唾液で少しだけ湿っていた。【了】

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