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しのふく通信

物語をめぐり、言葉をめぐり、それから。ーーーー✖︎篠崎フクシ

借景(下)

   アパートに戻ろうと踵を返したとき、近所の老婆に声を掛けられ、シンヤは立ち止まった。白髪で腰の曲がった、小さな老婆だった。

「あら、藤見さん、お元気?」

「ええ、まあ」

   アパート暮らしであまり近隣の住民と懇意にしていないので、適当な挨拶でやり過ごすつもりだった。御機嫌よう、といいかけてふと、彼女の視線が寂しげに諫早家に向いていることに気づいた。

「まったく、残念ね」

「どうかしましたか?」

   シンヤは思わず老婆の嘆きに乗っかってしまった。

「いやね、半年前に亡くなったでしょ?  諫早さん」

「え?」寝耳に水だった。「だって、夏頃、駅前でお見かけしましたよ。その時はお元気そうだった」

「あら、知らなかった? まあ、無理もないねぇ。あの人、ほとんど地域で付き合いがなかったから。秋に旅に出ると言って、知多半島の片田舎で亡くなったらしいよ。脳卒中だって。もともと、奥さんに先立たれてから一人暮らしでしたでしょ。亡くなってすぐに、相続された遠い親族の方がこの土地を更地にして売りに出すことを決めたのよ」

「更地……」シンヤは追い打ちをかけられたような気分になった。

 

 翌日、名古屋の単身赴任先での必要な手続きを済ませてから、すぐに帰りの新幹線に乗り込んだ。早くしないと手遅れになるような気がしたからだった。急がなければならない。ただ、その理由を問われても、上手く答えることができそうになかった。

 夕刻、アパートに着くと、ちょうど小型のクレーン車が公道への隘路を抜けていくところだった。つづいて、トラックの荷台に横たわった屍体のような大木が見えた。表皮のゴツゴツした、桜の木だ。

 シンヤは、ああ、と漏らした。

 涙は出なかったが、鼻の奥がツンと痛む。枝はすべて切り落とされ、幹だけがワイヤーでぐるぐる巻きにされている。老木というほどでもない、まだまだ花を咲かせることのできる木が、現実に伐採されていた。

 シンヤはその理由がうまく飲み込めず、ただトラックの通り過ぎるのを見つめるだけだった。

 

「なあシオ、人ってさ、自分の思い描いたような道に進むことができないんだな」

 娘のタマキを寝かしつけてから、シンヤはカーテンを薄く開け、外を見ながら言った。グラスに入れた麦焼酎のお湯割を舐め、リビングでアイロンがけをしているシオの言葉を待った。シオは黙っている。

「一瞬にして、我が家の前に空洞ができた」敷地の脇に小型の重機が一台残されていたが、それ以外、そこには何も残っていなかった。今まで見たことのない二軒隣の家の窓明りが小さく闇に浮かぶ。

「私にも一口もらえる?」

 シオはアイロン台を押し入れに片づけてから、ソファの、シンヤの隣に腰を沈ませた。グラスに唇をつけ、顔をしかめる。彼女は下戸だ。途端に頰が薄紅色になるのを、シンヤは嬉しそうに見つめている。

「なに?」シオは夫を軽く睨む。

「いや、お前のそういうところ、かわいいな」

「なにを今さら」そう言って、シオはシンヤの肩に凭れかかる。

「〈花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり〉」

「なんだそれ?」シンヤはシオの肩を抱きながら訊いた。身体の芯が疼く。

小倉百人一首のなかで、私の一番好きなうた。桜の花弁も散れば、人も散りゆく」そう言ってシオはシンヤの手を払いのけた。「一年だけだからね。もし、その間に浮気でもしようものなら、容赦しない」

「は、はい」

 返事をする夫の言葉にかぶせるように、妻はまた一つ、くしゃみをした。

 へぶしっ。【了】

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