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しのふく通信

物語をめぐり、言葉をめぐり、それから。ーーーー✖︎篠崎フクシ

借景(上)

 板がめくりかえる音が雷のように響く。

 バリバリと音を立て、小型のショベルカーが木造家屋を解体し始める。公道からの隘路を通らなければならないので、重機は小型でなければならないが、まさかこんなに本格的にやるとは、と藤見シンヤは眼を見張った。

「パパ、すっごい音だね〜」

   タマキは両の耳に人差し指を突っ込みながら叫んだ。 

   玉川上水沿いのアパート一階に暮らし始めてから四年経つ。小さいながらも格安の、庭つきアパートなんてなかなか住めるものじゃないと、妻のシオがなかば強引に新居を決めた。その年に産まれた一人娘は、目の前に流れるそれに因み、タマキと命名された。

「埃がすごいから、あんまりそっちに行くなよ」

   シンヤは網のフェンスに顔をくっつける娘を抱きかかえ、軒下に連れ戻した。バスタオルに長袖Tシャツや膝の擦り切れたジーンズなど、三人分の洗濯物が、風でハタハタと揺れている。

「パパ、やっぱり気になるから、取り込んでくれない?  洗濯物」

   キッチンで遅い朝食を用意していたシオの声がガラス越しに聞こえる。

 今日は平日だが、珍しく夫婦ともに休みだった。

「はいよ」シンヤは足をじたばたさせている娘を縁台に座らせてから、すぐに立ち上がる。「埃なのか花粉なのか、よく分からねえな」

 へぶしっ、と妻のくしゃみがこっちまで聞こえてくる。シンヤは今のところ大丈夫だが(つまりコップの水が一杯になっていないのだが)、シオの方は重症だった。今年は去年よりさらに酷いらしい。家のなかでもマスクをしている。

 春分を過ぎ、日に日に太陽の光が暖かくなってゆく。新しい春が来るはずなのに、シンヤの心のなかでは、日に日に寂しさが募っていった。

「明日、名古屋の不動産屋に行ってくる。最後の手続きが終われば、鍵をもらって部屋に荷物が入れられる」

「うん」妻のシオはなんでもないような顔をして、ソーセージにフォークの先端を突き刺した。プチっという小さな音とともに、肉汁が滲む。シンヤはビクッとした。シオはまだ、シンヤの単身赴任に納得していないようだった。

「一年間の辛抱だよ」コーヒーを飲むシンヤの眼鏡が曇る。「仕方ないだろう? 多摩支社が閉鎖になって、名古屋にしか移動先がないってんだから。寂しいのは分かるよ」

「寂しい? そういう問題じゃないでしょ。私だって働いていて忙しくって、タマキのこと、一人で育てることになって」シオは額に縦じわを寄せ、ちぎった食パンをタマキの口に押し込む。残さないでちゃんと食べるの、と娘に諭す。

「寂しいとか、そういう次元じゃ、ない」

 最後に読点が入るような口ぶりに、シンヤは何も反論できなかった。

「もう、いらない!」

 タマキがコップを倒し、牛乳が溢れる。白い液体がダークブラウンのテーブルに広がる。まるでコーヒーに注いだミルクが広がるように。シオが布巾でそれを拭くのを見ているうち、シンヤはやりきれなくなって席を立った。

「煙草、吸ってくるわ」

 

 庭側の柵を開け、玉川上水の緑道に出る。

 煙草に火をつけ、大きく深呼吸をしてから、隣家の解体現場を眺める。諫早さんという家の主は、官能小説を書いている作家だった。七十を過ぎていまだ健筆であるから、古くなった家を建て替えるのかもしれないな、とぼんやり考える。

 ちょうどアパートと諫早家の間に大きな桜の木が植わっている。もちろん諫早家の敷地の桜だ。樹齢数十年の、立派な幹と枝を持つ桜の木。毎年それは、乱れるように美しい花をつける。酒のツマミにもなる、いわゆる借景で、夜桜がとくに好きだった。

 今年は見ることができない、か。

 シンヤは手持ちの携帯灰皿に煙草の先端を押し付けた。

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