ことば置き場

物語をめぐり、言葉をめぐり、それから。

#10 Checkmate

#10 Checkmate

 佐々並心療内科の医師、佐々並顕一郎はいつも暇だった。暇だからロクなこと考えないんですよ、と教え子の御木本が言うので、勧められるままにチェスをはじめてみたら、これが面白い。大切なものを失ってからというもの、アルコール依存と鬱状態に悩まされてきたが、少しは効果があるようだった。

「それで、俺を呼んだってわけね。まあ、俺も暇だからいいけど」
 小田原は口をへの字にして、ルークを左側にスライドさせた。
「にしてもさ、なんだいあの呼び出し方は?」
 佐々並はニヤニヤしながら何も答えなかった。
「私はね、あなたのように強い人には、普通のやり方では勝ちたくないんですよ」
 指先をブルブル震わせながら、佐々並はビショップの頭をつまみ上げた。王でもない者が、王の兵士の首を自由にするとはいったいどういうことだろうか。ふと小田原は考える。
「神の手、ですよ」佐々並は小田原の心を読んだように、語り始める。「つまり王の背後にいる二人の神が、私たちです。そして、その神はいつも、間違いばかりを犯す」
「間違いを犯す神、か。悪くない考え方だ」
「考え方ではない。それは事実ですよ。もし神が間違いを犯していないのであれば、私たちはいまここに存在していないでしょう」
 始まったよ、と小田原は心のなかで舌打ちした。こうした神学論争は、反吐がでるほど嫌いだった。それは自身のなかの、ある嗜好の存在を自覚してからのことだった。人には言えない、自分だけの嗜好。でも、自分はあるがままを受け入れた。
 つまり小田原は、自分が好きなものが好きなのだ。背後にある欲望の分析や超越者を想定しない思想、眼前の経験できる表面だけを肯定する思想。そう、部下の御木本に指摘されたことがあったが、何を言っているのかよく分からなかった。正直、理解するつもりもなかった。御木本のことは嫌いではなかったが、奴の読む難しい本の存在は反吐がでるほど嫌いだった。

 刑事が衒うんじゃねえよ、と言うのが小田原の口癖だった。

 盤上では小田原が追い詰められる。もう、最も手前の列にクイーンとルークとキングしか残っていない状態だ。佐々並も手持ちは少ないが、ルーク、ポーン、クイーンがぎりぎりまで我が王都に迫り、相手のキングははるか彼方で超然としている。

 しかし力は均衡し、引き分けかなと思った瞬間だった。

 ルークが特攻を仕掛けてきたのだ。チェック、と佐々並は呟く。すると一人の犠牲によって事態は打開される。小田原が相手のルークを取らざるをえない。そうして佐々並のクイーンが小田原キングの寝首を掻く。チェックメイト

「サクリファイスか」小田原は白と黒のチェックの盤面から目を離して言った。「肉を切らせて骨を断つ。どうやら、そちらの陣営は残酷な神が支配しているらしい。それとも俺が甘いのか」

「どちらでもいいじゃないですか、楽しければ。でしょう?」

 あれ、と思う。小田原の楽天的な思考が佐々並に転移したかのようだった。佐々並の表情は和らぎ、本当に楽しそうだ。

「もちろん」

 薔薇の香りのする診療所の庭は、午后の柔らかい陽光に包まれていた。【了】

追伸   これでほんとうのおしまい。ありがとうございました。

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