ことば置き場

物語をめぐり、言葉をめぐり、それから。

#9 Graduate

#9 Graduate

 誰もいない教室に一人、僕は佇んでいる。

 夕方、校舎の裏口からこっそり忍び込み、教室の窓から校門の方を眺める。

 夕日の淡い光で、窓枠の影が廊下側の壁に向かって伸びてゆく。

 静かだ。

 いつも流れているピアノの旋律も、いまは聴こえない。

 エリック・サティの〈グノシエンヌ〉が、記憶のなかで流れ出す。

 黒板には、担任の先生に向けたお礼の言葉が、似顔絵とともに色とりどりに書かれている。そこに君の書いた文字はない。卒業を待たずにイタリアに行ってしまったトウメは、同じ空を見ているだろうか。いや、時差も気候も違いすぎるか……、そう思うと君がずっと遠くまで行ってしまったのだと実感する。

「あれ、ミドリフチじゃん。なにしてるんだよ?」

 担任だったミズグチ先生が勢い良く入ってくる。酒臭い。もう理科準備室で、一杯やっているのだろうか。

「忘れ物を取りに来ました」

「ふうん」ミズグチ先生は疑いの目で僕を観察する。

 二人で暮れていく空を眺める。

「お前、志望校に合格してよかったじゃないか。仲間たちと一緒に頑張ったな」

 仲間たち、という言葉がちくりと僕の胸を刺す。ミズグチ先生は、卒業式なのに相変わらずのボサボサの髪で、僕たちを安心させてくれた。最後まで普段通りに、というのが先生の口癖だった。

「ミズグチ先生が紹介してくれた予備校の先生にも、お世話になりました」

「ああ、御木本ね。あいつ、変わってるだろ? 今まで色々あったらしいんだけど、最近は随分穏やかな目つきになってきたな」

「あれで?」僕は何人か人を殺めているような、あの人の目つきを思い出して言った。

 二人で微笑んだ。

「あった、これ」僕は机の中から一冊のノートを取り出す。題名のないノート。

「おお、本当に忘れ物だったんだ」

「僕が嘘をつくわけないでしょ」

「なんだそれ?」

「なんの変哲もない落書き帳ですよ。みんなで一年間、適当にノートを回して、好きなことを書きなぐるんです。先生には絶対に内緒で、という掟のもとに」

「マジか、知らなかった。SNSでなく、そんなところで俺の悪口を書いていたとは」

「まさか、先生の悪口なんて誰も書きませんよ。ほら」

 恋バナが八割、残りは漫画やアニメのキャラクターの落書き、部活やイベントの意気込みや愚痴だった。一枚だけ、トウメが描いたピアニストの絵が飛び抜けて上手い。そのピアニストは……。

「へえ、上手いな。そのピアニストは誰だ? 髪のボサボサしたおっさん」

 僕は唖然とした。いつも音楽室でサティを練習していた、白衣姿のミズグチ先生の絵なのに、本人が気づかないなんて。最後までまったく上達しなかった、サティの曲。

「さてね」僕はとぼけながらも、笑いを堪えきれないでいた。

 そんな他愛のない会話の中で、ふと、このノートの題名が思い浮かんだ。僕は鞄からサインペンを取り出し、忘れないうちにそれを書いた。

 題名は、『グノシエンヌ幻想』。

 まるで幻想物語のように、僕たちの三年間は終わった。【了】

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