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しのふく通信

物語をめぐり、言葉をめぐり、それから。ーーーー✖︎篠崎フクシ

#8 Coffee Break

#8 Coffee Break

 これまで犯してきた自分の罪はいくつくらいになるのか、桐屋創士は実際に数えたことがある。そうしたら、気が遠くなるほどの数に上ることがわかり、呆然とした。一口にギルティと言っても、あくまで主観的なものであり、その言葉の定義など存在しないに等しい。なので桐屋は、ある一定の要件を満たせば、「それは罪である」と判定することにした。例えば、殺し。それも無意識に行われたものでなく、意識的に行われたものに限定した。

「まず、物心ついた時に、蟻の群れを踏みつけた」

 桐屋はウィスキーのグラスを丁寧に置きながら言った。夕暮れ時、まだ早い時刻の地下のカウンター席は疎らで、店の空気も比較的清浄だった。

「そ、それなら、わ、わ、私にだって同じ罪があると言えます」

 吃音症の哲学者はどもりながら答えた。哲学者は事情があってそう呼ばれているが、実際は哲学者ではない。プラトンすら読んだことがない。しかし彼なりに桐屋についていこうと必死だった。目の前のコーヒーカップには手をつけていない。

「それから、私は魚を殺した。食べるためにだ。父親にルアー釣りに連れて行かれ、初めて釣った鱒を捌いて食べた」

「そ、それが罪に、な、なるのでしょうか?」

「まあ、暫定的定義の上での罪だよ」

 桐屋は右目にかかる前髪を掻き上げながら、微笑した。とても美しい顔立ちをしている、と哲学者は見惚れた。とても自分と同じ年齢だとは思えないほどだった。ダークグレーのスーツもぴったり似合っている。

「それから、熱帯魚を殺した。今度は食べるためではない」

「熱帯魚?」

「小学生の時だ。世話をするのが面倒になって、餌を与えるのをやめてしまったんだ。つまり、不作為の作為だね。でも、今度の罪は食べるための罪と何が違う?」

「何がって……、わ、私にはとんとわかりませんよ」

 哲学者は掌を前に向け降参の合図をしてから、失礼、と席を立った。黒服でサングラスの男が化粧室に入ったからだ。男は哲学者を促すように、重そうな矩形のケースを持ち上げた。武器の売買は手短に行われるだろう。お互いにプロだ。

 

 桐屋が一人になるとカウンターの端に突っ伏していた、一人の娼婦が近寄ってきた。酒臭かった。「マスター、この人と同じものを」と女は言って、桐屋の顔を覗き込んだ。

「ねえ、タバコを一本くださる?」

「かまわない、好きにやってくれ」桐屋はマルボロを一本差し出してから、これもどうぞ、と自分のウィスキー・グラスをスライドさせた。丸氷の溶ける音が小さく響いた。

 女は生き返ったように、煙を吐き出した。鼻と口から白い煙の線が流れていく。

「ルネ・フレンチみたいだ」

「え?」

「映画だよ。ジム・ジャームッシュ監督の〈コーヒー&シガレッツ〉という映画があってね。登場人物たちが、とりとめのない会話をしながらタバコを吸い、コーヒーを飲むんだ。ただそれだけ。そして、短編小説集のようなモノクロームの風景が移り変わっていく」

「はん、なるほど。そこに私のような小汚い娼婦が登場するのね?」

「小汚くもないし、娼婦でもない、多分。そのルネ・フレンチという女性はとてもセクシーで、不味そうなコーヒーを飲みながら、美味そうにタバコを吸うんだ」

「今の私みたいに?」

「そう」

「嬉しいこと、言ってくれるじゃない。さっきのホームレスとの問答も気に入ったわ。男子中学生みたいに、純朴なのね。罪があるかどうかなんて、知ったこっちゃない」

 桐屋創士はコーヒーを一啜りしてから、娼婦に顔を近づける。そして大きな瞳の中を覗き込んだ。互いに緊張が走る。

「その通り。答えは、知ったこっちゃない、だ」

 娼婦は震えながらも、男の瞳の奥の空洞に魅入られた。彼女は栗色の髪の先をくるりと人差し指に巻き、ある決断をする。この男ならもしかしたら、と思ったからだ。

 娼婦・マリィとの出逢いが、桐屋創士の政治活動をその後さらに加速させることになる。【了】

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