ことば置き場

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Essai1 憎しみについて−菊池寛『恩讐の彼方に』から

雑感 憎しみについて −菊池寛恩讐の彼方に』から

 人は時に、憎しみにとらわれ、そこから出られなくなることがある。

 自らのプライドが傷つけられたり、心身へ暴力を振るわれたり、あるいは他者に無視されたりと、さまざまな原因があるだろう。

 愛する人を他者の暴力によって失う、ということもあるだろう。

 そのような場合、世間では「復讐」という情緒的な言葉とともに、拡散されていく。

 「復讐」は正義として語られるが、しかし、ひとたび出来事の主体を離れてしまったその言葉には、実体がともなうことはない。それは、すでに記号にすぎないからだ。つまりその感情の在り処や行く末は、当事者にしか知りえない。

 ここで、世間に流布する記号のことなどを語りたいのではない。

 司法の存在が横目にあったとしても、やられた側にとっては、実際、憎しみが復讐へと転じておかしなことは一つもない。それはつまり、「私刑」だ。

 一方で、そうした人間観は、どこか危ういとも思う。

 菊池寛の『恩讐の彼方に』という短編小説が、そのことを教えてくれる。

 江戸期、主人を殺めた市九郎は、一緒に逃げた女の教唆でさらなる犯罪に手を染めていく。しかし、最後の殺しの後、突然罪の意識に苛まれるようになる。市九郎は女を捨て出家し、大誓願を果たせる場所を求めて放浪する。そしてついに自らの使命を見つける。それは絶壁を渡れずに亡くなる人々のため、山を穿つという使命だった。

 村人に嘲笑されながらも、彼は何年も何十年も隧道の開削に力を費やした。

 やがて、かつて殺めた主人の息子、実之助が復讐を遂げに僧侶の前に立ち現れる。仇討ちである。ところが、憎しみの象徴である眼前の老いさらばえた僧侶に対し、実之助の心は揺れるのだ。

 何故か。

 時間がそうさせたのか。贖罪のため一途に穴を穿ち続ける僧侶の姿そのものがそうさせたのか。実之助の記憶にリアリティがないからか。

 結末はもう、想像できるだろう。

 それは贖罪の物語である以上に、赦しの物語でもあるのだ。

 私たちに巣食う憎しみとは何か、そうした感情とどのように付き合っていけば良いか、時に忘れ去られたような古い文学が教えてくれるのである。

 小雨と曇天に日に。

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