ことば置き場

物語をめぐり、言葉をめぐり、それから。

#2 Fight Money

#2 Fight Money

 カサギは控え室で静かに壁を見つめている。これが最後の試合になるかもしれない。もとより覚悟の上だが、蛍光灯にぶち当たっては落下する蛾の哀れな羽ばたきが、自分の人生に重なって見える。歳をとりすぎたのかもしれない。

 ホールからの歓声が大きくなった。前の試合が終わりを告げたのだ。昨夜までの緊張が嘘のように消え、極限まで心は研ぎ澄まされる。

「終わったぞ、カサギ」トレーナーの水蔵が、タオルを首に巻きながら入ってきた。「トシヤが負けた」

    トシヤ……。

「そうか、負けたか」

    カサギはそれだけ呟くとベンチから立ち上がり、バンテージを巻き始める。 やはり勝ちたい、勝たなければならない。そう思うと指先が震えた。 

 金が、必要だった。 

 ここでバンタム級日本チャンピオンのベルトを獲得すれば、東洋への道が開ける。ファイト・マネーも徐々に上がっていくだろう。そうすれば、組織と手を切ることができる。

「相変わらず、下手だな」そう言って水蔵がバンテージを巻き直してくれた。「これじゃあ、試合に勝っても、手首をやられちまうぞ」

 長年連れ添った老夫婦のように、二人は笑った。

 

 控え室を出ると、前座で負けたトシヤがうなだれて歩いてくるのがわかった。瞼を深く切ったのだろう、ワセリンで止血しているが子どもの拳大ほどの腫れが目立つ。よく聞き取れないが、何かブツブツと呟いている。

 慰めの言葉でもかけてやろうかと考えたが、やめた。組織の人間が視界に入ったからだ。上等なスーツを着て頭をオールバックに撫でつけた男は、カサギに気づくと床に煙草の吸い殻を落とした。口から漏れ出る煙は、溜息が可視化されたように奇妙な渦を巻く。 

「よう、未来のチャンピオン。調子はどうだい?」

 男は戯けたように手を振りながらカサギに喋りかける。無視して通り過ぎようとしたが、男の性格はしつこい。「局長は双子ちゃんのどちらかを養子にしたいって仰っていたよ。マリアちゃんとマリイちゃん、だっけ?」 

 その瞬間、頭に血が上って、カサギは男を睨み付けた。 

「その甘ったるい香水でいかれちまったんだな、ブルガリさんよ。今度その名前を口にしたら、撲殺する。試合に勝って、ファイト・マネーを約束通りお前らにくれてやる。そうすりゃ、くだらない用心棒ともおさらばだ」

「おー、怖……」ブルガリは大袈裟に両手を挙げ、降参したふりをする。「まあ、せいぜい踏ん張ってくださいよ」 

 リングに上がり一通りの儀式を終え、マウスピースを口に突っ込む。ゴングが鳴る。渇いて響くそれは、どこか銃声に似ていた。【了】

 

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