ことば置き場

物語をめぐり、言葉をめぐり、それから。

本の発売日が決まりました

お久しぶりです。 小説『明滅する世界の縁』の発売日が決まりましたので、お知らせします。 ペーパーバックの小さな小さな本です。 お手にとっていただければ幸いです。 明滅する世界の縁 https://www.amazon.co.jp/dp/4908862230/ref=cm_sw_r_cp_api_T6G1zb…

武蔵野線番外地(下)

目覚めても、まだ夢の中のような気がする。万年布団から這い出し、やっとの思いで台所に立つ。食欲がないので、何種類もの薬を水道水で流し込んだ。この半年飲み続けた抗鬱剤の入った紙袋を見て、ああそうだった、もう今日で必要ないんだ、と思う。鬱に抗う…

武蔵野線番外地(上)

武蔵野線が悲しい路線だと考えているのは俺くらいじゃないかと、古里シンはいつも思う。今夜も取引先との接待で美味くもない酒を呑み、もう日付が変わろうとしている。たかが二十数年間の人生だとヒトは笑うかもしれないが、同世代の少なくない連中と同じく…

満月(下)

百日紅の色が眼裏に残る、その夜は満月だった。 暗い空に穿たれた円形の穴は、別の世界に繋がっているのではないかと錯覚させる。考えてみれば、こうした自然の現象は奇怪だな、と水澄ソウジは病室の天井を見凝めながら思った。眠い。瞼を閉じるわけにはいか…

満月(上)

あの夜、月はどんな表情をしていただろうーー。 目が覚めた時、病室の窓から見える百日紅の花色が瞳を刺した。それは、太陽を仰いだときの、まぶたの裏のように薄い紅色をしていた。 水澄ソウジは全身を点検し、ベッドの上に横たわる自分の身体が一応無事で…

詩集# 捨てる

君はこれまで いくつの 名を 捨てただろう 僕はこれまで 無数の名たちを 捨てた 名は確かに 確かに 誰かの歴史に刻まれていた 雨粒が紫陽花の葉を湿らせ 君のくちびるを湿らせたように 名は誰かの耳朶を湿らせていた 記憶せよ と命じたものは もう立ち去った…

『百円の恋』といふ映画をみた

くもっている。あさからくもっている。 うつうつしているのは、てんきのせいではない。せいじかのせいでもない。とてもこじんてきにうつうつとしている。おかれたばしょで、さく、ことをおすすめするえらいひとのことばに、ごもっともとうなずきつつ、でもね…

残滓(下)

取調室の空気は淀んでいた。取調官の小田原は、自首してきた被疑者を前にして、暗澹たる気持ちになっていた。 黙秘権を行使しているわけでもないのに、被疑者の森嶋ハルはずっと俯いたままだった。世間話にすらあまり乗ってこない、こういう男は苦手だ。小田…

残滓(上)

蛇行する川の流れは穏やかだった。 犀川の川面は五月の柔らかい陽光を反射させ、まるで光そのものが流れているように見える。一つ一つの光点は、あるいは、ひとりびとりの魂かもしれない。魂があつまり、やがて濁流となる。そんなことを思いながら、森嶋ハル…

詩集#7 やまい

#7 やまい 春に咲く花が散りゆき 灰色の路面が薄桃色に染まる なのに 僕の咳はまだ止まらない 胸の奥から渇いた咳が かってに かってに 僕の意思ではないのに それは迫り上がる海面のように おそるべきちからをはっきして 神の教えに反した放蕩者の道の 足跡…

詩集#6 感情消失の記念碑

詩集#6 感情消失の記念碑 言葉を奪われた君は その日 一冊の詩集を 燃やした その炎はとても小さく 小さく 小さく 小さく 小さく 小動物に捧げられた墓標のようだった 言葉を奪われた君は その日 聖なる書に 火を放つ その炎は 君がこれから誰も愛することが…

ノンブル・ゼロ #2 cooking time

ノンブル・ゼロ #2 cooking time 「この世界には二種類の人間が存在する」 林フツツカは、都立高校の家庭科室で、生徒たちに向けて語り出す。チョークを持ち、黒板に一気に書き殴る。小学校の時に合格した書道検定三級という、微妙な腕前ながら、勢いだけは…

人々への眼差しー『ミュシャ展』から

日曜日の午後、乃木坂駅から地上に出ると、春の陽気に心和む。遠くに開花を始めた桜の木が見える。新国立美術館はチケットを買うのも長蛇の列に並び、館内もおしくらまんじゅう状態だった。 でも、来てよかった、と思う。 先日、録画しておいた「日曜美術館…

床屋

床屋 この物語はコーエン兄弟〈バーバー〉のオマージュである。もちろん、スクリーンはモノクロになっている。 ✳︎ 吉祥寺駅の公園口を降り、街の喧騒を抜け、井の頭公園への道を歩く。俺は暗い夜道に床屋のサインポールが浮き上がるのを確認する。もう二十年…

詩集#5 諦めの見返り

詩集#5 諦めの見返り 揺れる 列車の 向かいの席で 若い女が 歯をむき出しにして 笑う 楽しそうに笑う その口腔のおくに 銀歯が光る 俺は それでいい と思った 俺の この偽善よりも いいと思った 女の口腔のおくに 銀歯が光る 誰とも口を聞きたくなかった 俺…

サニーデイ・サービスを聴きながらー弥生のおわりに

今朝、灰色の冷たい空気のなか、FMラジオを聴きながら車を走らせていた。 左折し、国道20号をまっすぐすすみ、味の素スタジアムをすぎたあたりで音楽が流れてくる。とくに傾聴していたわけではなかった。 タイトルに〈桜〉という言葉が入っていたので、今朝…

詩集#4 裏切りの証左

詩集#4 裏切りの証左 そこは無風地帯だった 停戦合意にいたった街は それでも悲しみと猜疑と憤りに満ちていた 武器を放棄した俺は場末の酒場で つぎの抵抗の場を模索していた あの小男が あの裏切りという名の小男が現れたのは そんな時だった 裏切りは人懐…

安曇野 #3 森の中ではー絵本美術館にて

安曇野 #3 森の中ではー絵本美術館にて 一昨日の午后、自転車で遠くまで走ってみようと思った。穂高温泉郷に向かって、まっすぐ緩やかな勾配を上ってゆく。ママチャリだと結構キツイ。 先刻まで晴れていたはずなのに、急に雨雲が広がる。山の匂いがしだいに…

安曇野 #2 碌山が遺したものー碌山美術館にて

安曇野 #2 碌山が遺したものー碌山美術館にて こうして僕も書き言葉で表現しているのだが、改めて人が何かをつくりだすことの神秘に、驚嘆せざるをえない。それは言葉でなくとも、たとえば料理や建築や音楽でもいい。そこには何かしらのメッセージが含まれて…

安曇野 #1 山茱萸の黄色と

安曇野 #1 山茱萸の黄色と 家族の見舞いがてら、ひさしぶりに安曇野に帰省する。大糸線の豊科駅を降りると、まだ肌寒い。上空に強い寒気が流れ込んでいて、今日は全国的に寒いらしい。 少し雲で霞んでいるが、常念岳をはじめ、アルプスの山々はそれぞれ個性…

詩集#3 雨の日の全力

詩集#3 雨の日の全力 冷たい雨が降った 今日も俺は 何かしらを語り続けた 八時間 語り続けた 喉が 灼ける 白墨の軽さとは タイショウテキニ 腕の重みで肩が傾く わかってる わかってるぜ これで最後なんだろう? 窓の外は冷たい雨 階下のパーキングでは 毛…

借景(下)

アパートに戻ろうと踵を返したとき、近所の老婆に声を掛けられ、シンヤは立ち止まった。白髪で腰の曲がった、小さな老婆だった。 「あら、藤見さん、お元気?」 「ええ、まあ」 アパート暮らしであまり近隣の住民と懇意にしていないので、適当な挨拶でやり過…

借景(上)

板がめくりかえる音が雷のように響く。 バリバリと音を立て、小型のショベルカーが木造家屋を解体し始める。公道からの隘路を通らなければならないので、重機は小型でなければならないが、まさかこんなに本格的にやるとは、と藤見シンヤは眼を見張った。 「…

眠りについて ージャック・ロンドン『火を熾す』から

昨夜は飲みすぎたせいかそれともストレスなのか、真夜中に目を覚ましてしまった。早朝覚醒のような、アレか。経験的に、こういう時はすぐには眠れないだろうと考え、コップ一杯の水道水を飲んでから布団に入る。枕元の置き時計は二時を表示している。 仕方が…

詩集#2 いつもの不信感

詩集#2 いつもの不信感 君は僕の愚かな失敗に気づいただろうか 僕は君の小さな失敗に気づかない 空がこんなに青く澄んでいるというのに またとらわれる いつもの不信感に 僕の失敗はいつも君を苛立たせる だから僕は小石を拾う 投げた小石は川面を切り 銃…

ノンブル・ゼロ #1 prologue

#1 prologue 大臣政務官の執務室からのぞむ街の色は褪せている。久しぶりの雨だ。権力の象徴である議事堂の三角頭も靄がかかり、今日はどこか寂しげだ。 肘掛け椅子に深く座る松坂屋凛子は、そんな窓の風景を背にしてこちらを睨みつけている。向かい側の女も…

詩集#1 詩人の嘘

詩集#1 詩人の嘘 その男は 疲労の国から来たという そこでは 誰もがうなだれ疲れているという その男も 疲れ果て虚ろな目を足もとに落としている 黒いカラスが俺の耳に囁く 黒いカラスが俺の耳に囁く フリードリヒは溺れて死んだよ その女は 氷の国から来…

Essai3 運命についてーポペスク『砂漠の下の海』から

先週金曜日、都内の大学の外部講師としての仕事を終えた。もう大学の教壇に立つことはないだろうと思い、最後にもう一度振り向き青空の下の講義棟を眺める。大勢の学生を前にして大講義室で喋るということを何年もやってきて、慣れているはずなのに、いつも…

Essai2 構築について ー森鷗外『普請中』から

言葉をつかい、物語をつくることが好きだ。言葉のない物語というものもあるのかもしれないが、僕はこのやり方しか知らないので、こうして言葉を紡いでいる。というか、スマホの表面を撫でている。 言葉はイメージを喚起する。赤いハンカチーフという言葉によ…

#10 Checkmate

#10 Checkmate 佐々並心療内科の医師、佐々並顕一郎はいつも暇だった。暇だからロクなこと考えないんですよ、と教え子の御木本が言うので、勧められるままにチェスをはじめてみたら、これが面白い。大切なものを失ってからというもの、アルコール依存と鬱状…