ことば置き場

物語をめぐり、言葉をめぐり、それから。

武蔵野線番外地(上)

    武蔵野線が悲しい路線だと考えているのは俺くらいじゃないかと、古里シンはいつも思う。今夜も取引先との接待で美味くもない酒を呑み、もう日付が変わろうとしている。たかが二十数年間の人生だとヒトは笑うかもしれないが、同世代の少なくない連中と同じくらいには世界に絶望していた。

    LINEで彼女に誕生日プレゼントをねだられ、通販サイトのリンクを確認してから「り」などと適当な返信をする。リンクの写真は確かスワロフスキーの銀のネックレスだったが、すぐに忘れた。もう見ることもないだろうと思い、アイコンを長押しし、LINEアプリを消去した。

    タバコ、すいてえな、と思う。

    でももう、良識のなかに生きる自分にとっては叶わない願いだった。クソが、と小さく吐き捨てる。

    スマートフォンの音楽アプリを立ち上げ、毎日毎日毎日聴いている音楽を今夜も聴くことにする。イヤーピースを雑に突っ込み、ぼんやりと窓の外を眺める。夜景などという洒落た表現ができればいいが、ここは武蔵野線番外地。貧相に点在する街灯や窓明りが無言で通り過ぎるだけだった。

    東所沢駅で多くの乗客が降り、空いたシートに腰を下ろす。するとほぼ同時に、向かい側のシートに高校生が一人、座った。彼女はブレザーの制服を着、髪はロングで、清楚な感じだった。左目の下に小さな黒子がある。泣き黒子か。古里シンは相手を一瞥してから、趣味じゃねえなと思い、音楽に集中した。

    ところが向かいの泣き黒子の少女は、シンに視線を合わせ、妙な合図を送りはじめた。苺のように赤く光る唇を、開いたり閉じたりしている。声は出していないが、同じ言葉を何度か繰り返しているらしい。シンは怪訝な顔をして、無視を決め込もうとしたがダメだった。一度気になり出したら止まらない。

    仕方ねえな、と思い、子守でもするような気分で向かいの女子高生の隣に腰を掛けた。まさか、誘っているわけじゃねえよな。向かいの車窓に、古里シンと少女の姿が映る。トンネルに入った。流れる背景の色は、黒だ。

「ガキがこんなに遅くまで制服でうろちょろしてると、補導されるよ」

    イヤホンを外し、ぶっきらぼうな調子で言う。しかし少女は人形のように無表情で、シンの言葉には反応せず、一言だけ呟いた。

「最後から二番目の思想」

「え?」

    ただでさえ武蔵野線の車内は煩いのに、トンネルの中ではさらによく聞こえない。しかし、言葉の断片と少女の口の動きからすぐに理解できた。イヤホンから音漏れしていないことも確認した。

「それは、俺の聴いている曲のタイトルだ。なぜ分かった?」

「サティの曲を聴いている人は、表情で分かります。とくに〈最後から二番目の思想〉なんて、あなたらしいわ」

    訳知り顔の女子高生の言い方に、シンはちょっとムッとしたが、それ以上に好奇心を掻き立てられた。

「随分と俺のことに詳しいじゃないか。可愛い顔して、あんた、新手のストーカーか?」

    ふっと、少女は微笑み、シンの問いには答えず口を開いた。

「あなたのことなら何でも知ってますよ。例えば明日の朝、線路に飛び込むつもりだということも」

    まさか……。シンの顔は瞬時に蒼ざめた。言葉が出ない。

「そこで一つ提案があります。死ぬのは自由です。が、死ぬ前に、先ほどあなたが消したLINEのアプリを復活させてみてください。一人で彼の世に行くのも寂しいじゃないですか。冥土の土産をあなたにプレゼントしたいのです」

    シンは視線を逸らし、向かいの車窓を見てまたもや愕然とした。泣き黒子の少女の姿は忽然と消えていたのだ。

    列車は新秋津駅で停まり、扉が開く。数人の酔客とともに、古里シンもホームへと吐き出されていった。(つづく)

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