ことば置き場

物語をめぐり、言葉をめぐり、それから。

武蔵野線番外地(下)

    目覚めても、まだ夢の中のような気がする。万年布団から這い出し、やっとの思いで台所に立つ。食欲がないので、何種類もの薬を水道水で流し込んだ。この半年飲み続けた抗鬱剤の入った紙袋を見て、ああそうだった、もう今日で必要ないんだ、と思う。鬱に抗うのは、もう終わりだ。
    古里シンは、ずっと考えてきたことを実行できることに、ある種の清々しさを感じていた。ようやく楽になれる。

    下らないとは思いながらも、顔を洗い髪を整えアイロンをあてたワイシャツを着て、ネクタイを締める。仕事か……。

    取引先の会社から無理難題を突きつけられることは、それほど苦ではなかった。営業職をやる以上、もとより覚悟していたからだ。許せないのは、責任を取ろうとしない上司があまりにも多すぎることだった。昨日は、東南アジアの工場にサンダルの大量発注をかけたが、直後に取引先から待ったがかかった。納期を早めた上、単価をさらに引き下げろという。ギリギリまで調整はつづいたが、結局交渉はまとまらず、一つ仕事を逃してしまった。
「古里、お前、死ねよ。お前みたいな部下のせいで、俺の昇進が遅れてるんだよ」
    でっぷり太った課長はデスクを叩いて言い放った。ほんの数日前には、俺が責任を取るから思い切りやってこいとかなんとか、ドラマのセリフみたいなことを言っていた口が、これだ。
「んだよ、その目は、このクズ。給料泥棒! 頼むから早く死んでくれ。死ね!死ね!」
    そんないつものやり取りの後、接待で夜遅くまで酒を呑んだのだ。疲れた、というより、感情はすっかり麻痺していた。
    もう終わりにしよう。そう思った。

    西武線から乗り換え、新秋津駅でそれを実行するつもりだった。ぞろぞろと通勤客は地下のホームへと流れて行く。いつも通りだ。いつも通りの場所に立ち、この世界とお別れする。ただ、それだけ。

    武蔵野線は悲しい路線だ、と古里シンはいつも思っていた。理由なんて忘れてしまったが、毎日聴いているサティの曲が関係しているかもしれなかった。〈最後から二番目の思想〉は、曲というよりもそのタイトルに強く惹かれていた。昔、下手くそな詩を書いていたからかもしれない。

    オレンジ色のいつもの車体が、遠くから近づいてくる。さあ、終わりにしよう。

    そう思った瞬間、ふと、泣き黒子の少女を思い出した。なぜこんな時に、と古里シンは苛々しながらスマートフォンを手にし、LINEアプリをダウンロードした。着実に列車は近づいている。早く早く。いつもより時間が長く感じられる。早く早く。彼の世に飛び込まなければならないのに!

 

    列車は定刻どおり新秋津駅に停まり定刻どおり、東京方面へ出発した。

    古里シンはホームに立ちつくしていた。列車が去った後、向かいの府中本町方面ホームに女が一人立っているのがわかった。手を振っている。LINEのメッセージを見て、わずがに判断が鈍った。

〔いま、わたし、どこにいると思う?  なんと、シンの向かい側のホームにいるよー!〕

    昨夜、スワロフスキーをねだってきた彼女が、満面の笑みでこちらに手を振っている。大学時代から付き合っている彼女は、いつでもシンの気持ちなんかおかまいなしだった。

    でも何故か、今朝だけはそんな彼女の天然ぶりが愛おしく思えた。シンは仕方ねえなという顔をして、軽く手を挙げた。

ーー、ここは武蔵野線番外地。

人びとの魂が交差する、彼の世と此の世の小さなあわい。【了】

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